コーカサスの未承認国家、ナゴルノ=カラバフで考えたこと

 

 

 

二月の終わりから三月まで、一ヶ月ほどトルコやイランの中東と、コーカサスの国々を周ってきた中で、何が一番衝撃的たったかというとやはり「ナゴルノ=カラバフ」で見た光景だと思う。衝撃的という言葉ではあまりにも形容し難く、ナゴルノ=カラバフを訪れたあとは、胸に鉛が沈殿して自分がそこから動けなくなるような気分になるのだ。

とはいっても、ここで体験したことはブログであれなんであれ、自分の中で文章にして消化するつもりだったので、とりあえず、書く。

訪れた期間は2018年3月の12−14日という短い期間ではあるが、一ヶ月間の旅の中で一番記憶に刻み付けられた場所だった。

 

 

まずナゴルノ=カラバフという場所について

 

ナゴルノ=カラバフは、アゼルバイジャンとアルメニアの間に存在する『未承認国家』である。
つまりどの国からも国として認められておらず、アルメニアでさえもナゴルノ=カラバフは国家として扱ってはいない。

アルメニアとナゴルノ=カラバフ国境にあった国旗。右がナゴルノ

 

未承認国家ナゴルノ=カラバフ誕生の始まりは第一世界大戦後、ソビエト連邦解体でロシアの影響力の弱体化とともに、アゼルバイジャンとナゴルノ=カラバフ(その時は自治州だったが)の軋轢は広がっていく。

 

 

それはアゼルバイジャンの領地といえども、そこに住む住民のアイデンティティーはアルメニアのものだったため、徐々にアゼルバイジャンから独立を望む声が強くなり、次第に武力紛争へと繋がっていったのだった。

 

 

1991年、独断で実施した「国民投票」を元にナゴルノ・カラバフは共和国としてアゼルバイジャンからの独立を宣言し、自治州であった領域以外の地域の領有権も主張するようになった。その後、紛争はますます激しさを増し、ナゴルノ・カラバフはアルメニアによる軍事介入も受け、自治州の領域外のアゼルバイジャン領をも占領し、支配下の領域はアルメニアの国境とつながるようになった。1994年、ロシアの仲介により停戦協約が結ばれ、激しい戦争は終わりを迎えた。死者は約3万人、難民は100万人以上にも上ったという。現在のナゴルノ・カラバフは、経済、軍事的にアルメニアに依存しているが、他国と同様にアルメニアからも国家として承認されていない。「ナゴルノ・カラバフ:国家のようで国家でない地域」 より引用 http://globalnewsview.org/archives/5142

 

 

つまり1994年以降ナゴルノ=カラバフとアゼルバイジャンの間に結ばれたのはあくまで停戦であり、実際にはいつまた戦争が始まってもおかしくない場所なのである。

私が訪れたのは2018年であったが、わずか2年前には両国間で350名以上の死者を出した武力衝突が起こったばかりであった。
2017年5月にはアゼルバイジャン側の攻撃によりナゴルノ=カラバフ側の防空ミサイルシステムが破壊される事件も起こっている。

 

 

 

 

この記事は帰国後に書いているわけだけど、毎度のことながら、ナゴルノ=カラバフを訪れた際は民族間紛争の背景は知る由もなくて、漠然と戦争が起こった地域なんだなって思っていた。(停戦中だとも知らなかった。まさか自分がいつ戦争が始まってもおかしくない所にいってたなんて)

 

旅をしなければナゴルノ=カラバフという国を知ることもなかったし、アゼルバイジャンとの紛争についても調べることはなかったかもしれない。でもナゴルノ=カラバフで見た光景は「勉強になった」だけじゃ終わらせられないと思う。そこで見たのは深くてどす黒い、戦争が生み出す邪悪な何かの片鱗で、平和ボケした国から来た私はただ言葉を失うだけだったから。

 

 

 

 

 

ナゴルノ=カラバフでみたもの

アルメニアからナゴルノ=カラバフについてすぐ、宿の主人のにタクシーを出してもらい、二日間チャーターさせてもらった。というのもバスがそんなに発達しているとも思わなかったし、宿もナゴルノについてから客引きの人についていって決めたほど、ナゴルノ=カラバフ行きは当然で下調べもしてなかったから、交通情報なんてもってのほかだった。

 

唯一知っていたのは「シュシ」と「アグダム」という街である。一つめのシュシはよく拝見させてもらってる旅ブログ で記事を見たのと(リンク先貼らせてもらいます!実はナゴルノ=カラバフ行きを決めたのもこのブログのおかげ。いつも楽しみにしてます)

「アグダム」がロンリープラネットで『コーカサスのヒロシマ』と紹介されていたのを目にしたことがあったからである。

 

どちらもアゼルバイジャンとの紛争で激しく被害が出た地域の一つであるが、シュシにはまだ人が住んでいる(住めている)のに対し、アグダムは完全にゴーストタウンであり、国境線を警備している兵士がいるだけである。

 

まずはシュシへ

訪れたのは三月の半ばで、積もらない程度ではあるけど雪が降っていて、
凍え死ぬと思ったくらい寒かった。

泊まった宿(といっても一人で宿丸ごと使えた)がシャワーが外にあるせいで
毎夜死ぬ気でシャワー浴びてた。シャンプーしてたら死んでた(髪濡らしたら最期だったと思う)

 

 

シュシでは、ドライバー兼宿のオーナー(確か)アシューコさんの親戚が住んでいて、ついでに訪れた際になんだかんだで子供たちと仲良くなり夕食までご馳走してもらってしまった。

 

 

ナゴルノ=カラバフ1日目は子供たちと、シュシの街をひまわりの種をつまみながら散歩して、お邪魔した家で女の子とダンスしてた記憶しかない。楽しかった。

自家製のウォッカを勧められたけど、お酒弱くて飲んだら死にそうだったのであんずジュースを代わりにガブガブ呑んだのも覚えてる。

 

 

 

 

 

 

そして2日目。

 

今日は少し遠出をして、もともとの目的地だった「アグダム」と国中にある教会へ。

 

 

と、その前に

 

 

まずはナゴルノ=カラバフのシンボル『我らの山』へ

カラバフの人たちはこの像それぞれを「ママ」と「パパ」って呼んでた。

(マーケットで我らの山マグネット売ってたよ。)

 

早々と我らが山を出発し、郊外へ

 

首都であるステパナケルトを抜けて郊外へ出た途端、軍の検閲が道路で頻繁に行われるようになる。
アグダムは規制がもっと酷いらしく、3km毎に警備が敷かれているらしい。

写真も車からだけじゃないと撮れないらしく、もし車から降りて街へ入るところを見られると、観光客を連れていったドライバーも罰金とし大金を請求されるらしいから、リスクを犯してまで連れていってくれるドライバーはあまりいないと思う

 

 

故に、アグダム自体は行けず、遠いアグダムらしき街を車の中から見ることしかできなかったわけだけど、ステパナケルトを出たすぐの郊外へ向かう途中で気になったところが見えたので、車を降ろしてもらって訪れた場所がやばかった。

 

 

 

場所は伏せるけど、川の向こう側。

写真の人は運転手さん。やはりナゴルノではタクシーチャーターした方が、何かあった時のために
自分の安否を確認してもらう上でも必要だと思う。

 

 

川辺の小屋に住んでいる夫婦のおじちゃんおばちゃん。
おばちゃんは写真を恥ずかしがってたけど、おじちゃんにせっかくだからと言われて照れながらポーズ。
ちょっと会話をして仲良くなってから、先ほど車から見えて気になった場所まで向かう。

ドライバーさんには、川辺で待っていてもらうことに

 

 

少し歩くと、見えて来たのは、かつて駅であっただろう瓦礫の山

 

 

瓦礫の山の後ろで、おじちゃんが一人作業していた。
特に悪いことはしていないはずなんだけど、衝動的に隠れてしまいたくなったのは、
この場所の持っている圧倒的なオーラのようなものと、無知なままこの場所に観光客気分で来てしまったことへの罪悪感かもしれない。

でもおじちゃんに挨拶がわりに遠くから手を振ると、振り返してくれて、おじちゃんの他にも
奥の廃墟とも呼べる建物に数人作業員の仲間がいることに気がつく。

招かれたので、せっかくだからいってみることに

 

廃墟になる前、駅としての役割を持っていた頃には待合室だったのかもしれない一角に、
壊れたソファーとみるからに朽ち果てたストーブの近くに作業員の人たちがいた。

焚き火をおこして、コーヒーとお菓子で休憩していたので、私も混ぜさせてもらう。

 

めちゃくちゃ寒い中、入れてもらったトルココーヒーはしみる。
お菓子の空き缶?でコーヒーを煮出していたのが印象的だった。確かに鉄だもんね

 

少し話をして、また周辺を探索するためにおじちゃん達に別れを告げた。

コーヒー、ごちそうさまでした!

 

個人的にだけど、周辺にいる人とは積極的にコミュニケーションをとって、自分の存在を知らせておくのが大事だと思う。特にひとり旅においては。
本当に危なかったら、それを知っている現地の人から(否が応でも)アドバイスをもらえるわけだし、
万が一自分に何かがあった時に、誰か一人でも自分がそこにいたという事実を知っていてもらえることは、誰にも知られずに事故にあった場合より、遥かに助かる確率が上がるはずだ。

 

それと個人的に後ろめたい気分で歩き回りたくないので、現地の人がいたらガンガン手を振ったりして話しかけていくことにしている。

 

 

「野良犬に気をつけてね」と一言アドバイスをもらい、いざ元・駅を出発すると、

 

 

歩き出して五分もせずに、自分がどんな場所へ来てしまったのかを知ることになった

 

 

多分これ、全部戦車なんじゃないだろうか

 

 

 

 

いわば軍用車両の墓場である。

 

戦車を筆頭に、救護車や貨物車、列車までボロボロというより何か大きなものの力で、皆一様にひしゃげて無残にもこの一帯に集められている。

 

 

砲弾の薬莢だろうか?たくさん地面に転がっていた。

 

 

 

朽ち果てた瓦礫や車だったものの周りには、人を阻むかの様に荊が生い茂っていて
ジーンズを履いていても、棘が足に突き刺さってくる。

 

 

軍用車両らしきものの他に、多かったのがスクールバスのような小型から中型の車両。
どうなったらこうなるんだという方向にひん曲げられて、転がっていた

 

 

バス内の焦げた後から、ただ単に戦車等で壊されたのではなく、爆撃されたようにも見える。

一つ一つ、執念的とも言えるぐらい、壊されている。
アグダムの街を遠目に見た時も思ったが、この戦争はきっと、広範囲に爆撃するようなものではなく、敵の軍が、家を一つ残らずしらみつぶしに破壊させていった様な印象があった。

 

純粋な憎しみが、その場所には漂っていた様な気がする。

 

 

ここら一帯が駅であったことには間違いないだろうが、今は戦争時に大破した車両や瓦礫を集めておくスペースになっているんだと思う。
しかし瓦礫を片付ける作業員は数名しかいないわけで、ここがまた駅へ戻るには何年もかかるだろう。

 

 

 

 

来た道を辿り、また初めの「かつて駅」へ戻ると、さっきのおじちゃん達が待っていてくれて、

 

 

「これ、プレゼント。記念として持って行きなよ」

 

と、手の中に何かを渡された。

 

 

 

 

それが本物の弾丸かなんて、見なくても手の中の重みが物語っていた

 

 

 

 

 

行きでは気がつかなかった、おじさん達がどこでそれを拾って来たかは明白だった。
なぜなら、地面の上で小石だと思って見過ごしていたものは、無数に転がっている弾丸だったからだ。

 

 

教会へ行く途中でみた、アゼルバイジャンのナンバープレート。

 

 

ナゴルノ=カラバフへの滞在は二泊三日と短いものだったけど、今回の一ヶ月の旅の中で一番心の中にズシンと残る体験だった。今でも、本当に自分はここへ訪れても良かったんだろうかと考える時がある

 

 

 

 

といっても、人もご飯も美味しかったナゴルノ=カラバフ。

戦争のダークなところだけじゃなくて、ナゴルノ=カラバフのローカルも知ってほしいな〜

ナゴルノ=カラバフ風のおやき。中にニラ?野菜みたいなのが詰まっている

 

 

このおじさん達は、宿の近くのケバブ屋さん。外は寒いからって中に入れてもらって自分のケバブができる様子を近くで見せてもらった。

 

マッシュルームの串焼きが死ぬほど美味しかった。寒い中ホカホカのケバブを食べるのはサイコー

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5件のフィードバック

  1. Nabe より:

    写真めっちゃいいです!引き込まれてしまいました!!ドイツ暮らしも素敵なので楽しんでください!

    • amishato より:

      うわああああああコメントめっちゃ嬉しいです!ありがとうございます
      ブログ更新励みになります\\\\٩( ‘ω’ )و ////楽しみます!

      • Nabe より:

        これからも楽しみにしてます!
        インスタとかでもっともっと写真見れたらなぁと思ってしまいました!!

        • amishato より:

          そう言って頂けて嬉しいです!
          実はインスタアカウント作ってたのにブログでシェアするのを忘れてました笑
          よかったら @this_is_not_ami で探していただいたら出てきます笑

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